戦争を生き延びた祖父母のこと
私は、父方の祖父母と、
両親、妹2人の合計7人の大家族で育ちました。
祖父母は、すでに他界しましたが、
ふたりとも100歳近くまで生きて大往生でした。
祖父母はいつも優しく穏やかで、
目に入れても痛くないとでも言わんばかりに、
私と妹を可愛がってくれていました。
祖父母から怒られた記憶は一切ありません。
私が幼いころから、祖父は口を開けば、
第二次世界大戦での兵士としての経験を、
語っていました。
でも、幼い私にはたいくつ極まりない話で、
『またおじいちゃんは戦争の話ばっかり・・・』
と、流し聞くようになり、
あんなに十何年も同じ話を繰りかえし聞かされたのにもかかわらず、
さっぱり内容を覚えてないんですが、
それを知ったアメリカ人の元夫に、
「そんな貴重な戦争体験談を覚えていない!?
信じられない!もったいない!!!」
と、呆れかえられ、
「直接おじいさんから戦争の話を聞きたい(*゚∀゚)=3」
と、言い出したため、
約15年前くらいになりますが、
実家でアメリカ人の元夫による、祖父母への、
第二次世界大戦インタビューが行われまして、
通訳担当の私はここで初めて真面目に、
祖父母が戦争で何を体験したのかを聞く事になったんです。
ちなみに祖父母は、私のアメリカ人との結婚を、
誰よりも喜んでくれていました。
元夫との帰省時には、足が悪い祖父がよろよろと杖を突きながら、
祖母と一緒に出迎えと見送りまでしてくれる歓迎っぷりでした。
私一人で帰省した時にはしてくれないのに・・・(苦笑)
話は戻って、祖父母はインタビューで、
終戦間近の敗戦色濃い頃に、大阪府堺市で暮らす、
子供が4人いる一般職の祖父の元に、
赤紙の召集令状が届いた事から話し始めました。
満州(現在の中国東北部)へ陸軍兵として出兵させられた祖父は、
「人を殺すの嫌やったから、
敵を撃つふりして、いっつも空を撃ってたわ」
と、当時を振り返ります。
そして終戦となり、引き揚げ船に乗り遅れた祖父は、
何か月もかけて、ひとりで中国大陸を歩き、
夜は民家の軒先で野宿して、日本を目指したそうです。
どこかの海峡を泳いで渡ったとも言っていました。
「中国の人がな、
軒先で寝てる敵国の日本兵のおじいちゃんを家の中に入れてくれて、
食事まで出してくれたりして、親切にしてくれはったそうや。
おじいちゃんが悪い人に見えへんかったからやろうな」
と、祖母は言います。
祖父が戦争から戻ってこない間、
祖母はひとりで4人の幼い子供を育てていました。
戦時中、大阪の堺市に暮らしていた祖母は、
「空襲警報が鳴る前に、いつも誰かが起こしてくれはるねん。
目が覚めてから、空襲警報が鳴るねん」
と、言っており、
実家のある奈良県に疎開移住することに決めたのも、
この”誰か”に言われたからだそうで、
「あのまま堺におったら、死んでたわー」
と祖母が言うように、
疎開した直後に大阪大空襲で堺市が焼け野原となったそうです。
そして、疎開移住先の奈良県での暮らしは、
とても苦しいものでした。
「食べるもんがないから、みんな草の根っこまで食べてしもて、
ここら辺、草1本も生えてなかったで」
とのこと。
「燃料のために木が伐採されて山は丸ぼうずやった。
敗戦前には樹液を戦闘機の燃料に使うとか言い出して、
ほんまに日本は、狂っとったわ」
そんな最中、幼い娘が高熱を出し、
薬もなく、病院に連れて行くことも出来ず、
神にすがるしかなかった祖母は、
生死を彷徨う娘を背におぶい、
「石切さん」の愛称で知られる、
大阪の石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)まで行き、
死にもの狂いでお百度参りをしたら、翌日娘の熱が下がったそうで、
そこから祖母は、体が元気な間は毎月欠かさず「石切さん」に、
お礼参りをしていました。
(余談ですが「石切さん」って、IS入ってますね)
「広島に原爆が落ちた時はどう思いましたか?」
との元夫の質問には、
「そうやなぁ・・・毎日食べるもんがなくて、
食べもん探して、生きるのに必死やったから、
原爆落ちたって聞いても、
遠いところでそんなことがあったんやなぁ・・・
くらいにしか思ってへんかったかもな」
と、祖母は言い、
祖父は、
「日本がこれ以上、おかしなえらい事になる前に、
アメリカが止めてくれたんや」
と、言っていました。
ある年、実家に帰省した私に、
祖父は役所からもらったという小さな銀杯と書状を見せてくれました。
どうやら日本政府の特別記念事業で、
第二次世界大戦後強制抑留者や、
恩給欠格者や、引揚者への慰労品だったようで、
『こんなもんで、片付けようとするんか・・・』
と、私は悲しくなったのですが、
嬉しそうな祖父に何も言うことができませんでした。
祖父は、アメリカが日本を助けてくれたと、
いつも言っていました。
チャーリー・チャップリンの大ファンだった祖父とは、
一緒にテレビでたくさんの洋画を観ました。
特に祖父が大好きだった映画「ベン・ハー」からは、
大きな影響を受けました。
この映画でイエス・キリストを知り、
ここから私のイエスへの関心が始まったのだと思います。
そして幼いころから、祖父が大好きなアメリカに、
絶対に行こうと思っていました。
祖父が亡くなって、遺品の整理をしていた妹は、
3冊のアルバムを見つけたそうです。
1冊は私の、1冊は真ん中の妹の、
もう1冊は末の妹の写真が貼られたアルバムでした。
それぞれの写真には祖父の手書きのコメントカードまで添えられていて、
「こんなん、作ってるなんて知らんかったわ」
と、妹が涙ながらに教えてくれました。
私は祖父母から、無条件の愛を経験しました。
これからは私が、祖父母から受けた愛を、
この世に還元する番なのだと思っています。
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