癒守の地球

~いますべてが生まれ変わるとき。シリウス意識の光の地球へ~

七夕伝説の謎 その1

ノンモさん&ポコプンと出会ったばかりのころから、
なにかにつけて登場する「七夕伝説」

これまでの「七夕」に関する情報は、

『ストロベリームーンとイチゴ狩り』
『水面に映る月』

に、書いていますが、

(あぁ、そういえば、
2度と会えないと思っていたノンモさんに再会したのも、
2012年7月7日でしたねぇ・・・。
(→記事『私の神式会社への入社方法~ポコプン登場~』をご参照ください))

かれこれ4年間リサーチをしても、
決定的な情報は出てこないままなので、
ついつい忘れそうになっては、
「七夕」リマインダーが、何度も何度もやってきます。
(「婚活やって!双子ちゃん産んで!」と同じ頻度のしつこさで。苦笑)

一般的には、天の川を境にして会えなくなった織女(しゅくじょ・織姫)と牽牛(けんぎゅう・彦星)が、七夕の夜にだけ、かささぎの橋を渡り、再会できるという悲恋物語として知られている七夕伝説。

自分の備忘録も兼ねて…、
現在までの「七夕」についてのリサーチ結果です。

● ほとんどの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。

● 「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。
(Wikipedia『七夕』より)

● 七夕儀礼を天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)(機織の術を教え授けられた神)やシタテルヒメ(渡来系の機織り集団に奉斎された女神)を祭神とする、本来の鎮座地である(當麻町)葛城市太田で、日本最初の棚機の儀式が行われていたと考えられている。
(『棚機神社・葛城市』より)

● 七夕(しちせき)から七夕(たなばた)へ
 日本に七夕の儀式が伝わったのは、五世紀代(古墳時代 )のことである。七夕の儀式は古代中国の乞巧奠(きっこうてん) と呼ばれる宮中儀礼のひとつで、機織(はたお)り技術の向上を願う儀式であった。その儀式は単独ではなく、当時の最新の機織り技術や織機(しょっき)と共に大陸及び朝鮮半島から日本に伝来したと思われ、その裏付けが「七夕」という言葉の音にあると考えられる。

 本来、中国における「七夕」は「タナバタ」とは称さず、「シチセキ」もしくはそれに類似した音で称されていた。七夕(しちせき)が七夕(たなばた)へと音の変化を遂げたのも、「七夕(シチセキ)儀礼・棚機(タナバタ)・最新技術」が三者一体となって我が国に伝来したことを意味するにとどまらず、「棚機」とそれを操る渡来系工人の高度な技術が、それを受容した人々に強烈な印象と新鮮な驚きを持って迎え入れられたことが想像できる。
(『葛城市當麻物語(歴史)』より)

● 【 筑前大島天の川伝説 】

昔、唐の国に使えに行った貴公子が、織女を伴って帰国の途中、深い恋仲となったが、 それは果敢ないかりそめの縁で、二人は日本に着いて離ればなれになった。 それから貴公子は織女を想い日々を過ごしたが、ある夜、夢枕で神のお告げを受け、筑前大島の中津宮に来て、 天の川にたらいを浮かべ、水鏡に映る織女との逢瀬を楽しみに、神仕えの身になったという。
(宗像大社ホームページ『七夕祭』より)

● 【比治の里、峰山町鱒留[ますどめ]の集落に古くから伝わる「さんねも・羽衣」の伝説】

比治山に八人の天女が舞い降り、水浴びをしていると、三右衛門[さんねも]という猟師が天女の衣を家に持ち帰る。「どうか羽衣を返してください」と天女が懇願しても「家宝にするのだ」と返さない。天女はとうとう諦め、さんねもの妻となり三人の娘をもうける。

天女は美しいばかりでなく、蚕飼いや機織り、米づくりや酒造りを教え、村はみるみる豊かになり人々は幸せに暮らした。しかし、天女は天が恋しくてたまらず、ある日、隠してあった羽衣を見つけ三人の娘を残して天に舞い上がる。悲しむさんねもに「7日7日に会いましょう」と天女は言い残したが、ようすを窺っていた天邪鬼が「7月7日に会いましょう」とさんねもに教えた。それでも嘆き悲しむさんねもに、天女はゆうごう(夕顔)の種を渡す。種を蒔くと、つるはどんどん天に伸び、さんねもはつるを登った。そこは天上の世界、天女はせっかく来てくださったのだからと、「天の川に橋をかけてください」とさんねもに請う。「ただしその間、私のことを思い出さないでください。そうでないと一緒に暮らすことはできません」。さんねもは一生懸命に橋をつくり、もう少しで完成というとき、嬉しさのあまり、天女の姿を頭に思い浮かべてしまった。とたんに天の川は氾濫し、さんねもは下界に押し流されてしまった。

この話は七夕の発祥とされる。谷あいの集落には天女の長女を祀る「乙女神社」があり、天女を嫁にしたさんねもの子孫の家もある。その安達家の家紋は「七夕」、屋号も「たなばた」で、現在の当主は「この家の庭から天女は天界に昇ったそうです」と教えてくれた。代々そうして語り継がれてきたのだろう。

七夕 家紋
天女を嫁としたと代々語り伝えられている安達家の家紋は「丸に七夕」。現在も安達家では七夕の前日、8月6日(旧暦7月6日)に、近在の人たちが集まり七夕祭が催される。
(『丹後の伝承|舞い降りた天女、二つの「羽衣伝説」:JR西日本』より)

● 伊雑宮の御田・わらじ祭り・潮かけ祭り

初夏、伊雑宮の上空へ的矢湾から織女星(玉柱屋比売命)が登って来ます。伊雑宮では天照大神を表す「太一」の大団扇を立てます。太一は星の世界では北極星を表し、天御中主神ともなります。天照大神の化身が天御中主神と言う事になります。太一の団扇が田に倒されることにより、天上世界が伊雑宮の水田に移ります。玉柱屋比売命の住まいが天上から水田へと移るわけです。そして稲は生長し、穂は刈り取られ、伊勢神宮へ奉納されます。

ところが、このままでは玉柱屋比売命は天上に戻ることが出来ません。藁で、一畳の大きさの草鞋を編み、海に流します。この草鞋の大きさは伊雑宮に登ってくる一尋鮫の大きさと同じになります。草鞋は沖に流され、海中に没します。玉柱屋比売命は七夕の織り姫でもあるので、七夕の笹を海に流す風習と同じです。

この神様は海の中に行くと市杵島姫命と名前を変えます。国狭槌神の別名が妙吉祥で、吉祥天と同一視される神様です。八大龍王の信仰では八面天女(吉祥天+弁財天)に当たり、弁財天は市寸島比売命となります。向かう先は海の中の龍宮。そして、また初夏が訪れると、神様は星となり、伊雑宮へと戻ることになります。
(『わらじ祭り公式ホームページ』より)


「七夕伝説」を調べているうちに、
天女の羽衣、天照大神、豊受大神、かごめかごめ唄、竜宮城・・・などなどが、
まぜこぜになって伝えられているのが分かります。
もしかしたら、もともとは一つの伝承だったのが、
ばらばらに分けて伝えられてしまっているのかもしれません。

織女、棚機(タナバタ)から、天岩戸もつながりを感じます。



天照大神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、建速須佐之男命が機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまった。ここで天照大神は見畏みて、天岩戸に引き篭った。高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。
(Wikipedia『天岩戸』)



それから宗像大社の沖ノ島から出土されている、
金銅製高機(こんどうせいたかはた)という、金銅製のミニチュア織機ですが、
これと同様の高機が伊勢神宮にもあるそうですから、
七夕と何か関係ありそうだとにらんでます。

機織り機
金銅製高機(こんどうせいたかはた)

ちなみに、『癒守の地球物語「卑弥呼の国」』に登場する、

沖ノ島に暮らすタキリビメは織女で、
卑弥呼と磐余彦(神武天皇)も、七夕伝説に関係します。

と、これまでの「七夕」リサーチのことなど忘れてきっていた雪の降る3月、
リサーチしていたら意外なところからまた「七夕」が出てきました。

長くなりましたので、次回に続きます♪

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Posted by 八多 恵子(ハタ エコ) on  | 0 comments  0 trackback

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